生活保護は現金給付であるべきか(その1)

新型コロナウイルスの流行に伴う外出自粛の影響で、家で読書をすることが増えました。最近では学生時代に読んでいた「スティグリッツ ミクロ経済学 第2版」を読み返しています(何と物持ちの良いこと!)。
その中で「パレート効率(性)」の箇所を読んでいたときに、表題の問題を思い付きました。

パレート効率(性)に関する詳細な説明は経済学のテキスト等に譲るとして、この言葉についてざっくりと紹介するなら、限りある資源が効率的に配分されていることをパレート効率であると言います。
仮に日本が配給制だった場合、私がオレンジよりグレープフルーツを好み、Bさんが、グレープフルーツよりオレンジを好むなら、私にグレープフルーツ、Bさんにオレンジを配給すれば、限りある資源が効率的に配分されていると言えます。もしこれが逆に配給されたのであれば、私もBさんも不幸になり、限りある資源が浪費され、効率的とは言い難い状況となります。

上では配給制を紹介しましたが、パレート効率を満たすには基本的に貨幣が存在すれば十分です。なぜなら、私は自分がオレンジよりグレープフルーツを好んでいることを知っていますから、貨幣を使ってグレープフルーツを購入し、間違ってもオレンジを購入して自分を必要以上に不幸にすることはありません。

このロジックでいけば、生活保護制度を運営する上で、現金給付は現物給付より有利であるように思えます。わざわざ手間をかけて現物給付せず、生活保護の受給者の口座へ定期的に現金を振り込みさえすれば、受給者は与えられた金額の中で最適な行動をするでしょうから。

しかし、ここには大きな問題があります。そもそも経済学は、資源配分の効率性を考える学問であり、倫理観や物事の善悪を扱う学問ではないのです。
例えば、100ある資源を金持ちが100全て取り、貧乏人の取り分がない社会があったとします。しかしこの社会は、100ある資源を金持ちと貧乏人とで40ずつ折半している社会(つまり資源を計80しか有効活用できていない)よりも、経済学上ではより優れた効率的な社会とみなされます。善悪ではなく、効率が唯一の判断基準だからです。

ここで善悪の概念を先ほどの生活保護の話に導入すると、どういうことになるでしょうか。私は生活保護の分野に関する知識がほとんどありません。そのためこれからお話することは、私が一部のニュースやドキュメンタリーで得た偏った話である可能性が大いにあります。

例えば、生活保護の受給者が朝からパチンコ店に並んでいる、という話を聞いたことがある方は多分にいるかと思います。内容がセンセーショナルであればあるほど視聴者の関心を惹くので、おそらくこれは受給者のうちのごく少数だとは思います(思いたいです)が、存在していることは間違いないと思います。
こうした事実を前提とすると、効率性で勝るはずの現金給付が、急に色褪せたものに感じないでしょうか。

(「その2」へ続く)

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