子どもへの教育は投資?消費?

以前子どもの教育費について、主に金銭的な話題に絞ってお話をしました(「子どもの教育費について(前半)」「同(後半)」を参照ください)が、今回は私が考える子どもへの教育について、金銭的な面ではなく精神的な面でのお話をしたいと思います。

突然ですが、私は子どもにかけた教育費に対して、投資的な発言をする親があまり好きではありません。「あなたには幾ら幾らかけたのに、こんな学校しか行けないの?」とか「あんなにお金かけたのに、それじゃ元がとれないじゃないの!」等々。

私は子どもにかける教育は、投資ではなく消費だと捉えています。
もちろん、子ども本人にとっては、結果として現在の教育が将来的な能力等を作り上げていくといった意味で人的投資、未来の人的資本の蓄積につながっていくものです。
ただ、親の立場からすれば、子どもの教育にお金を使って、それによって子どもが一つでも新しいことができるようになれば、それ自体が喜び、それ自体が消費として完結する行為だと思っています。
そもそも投資というのは、現在のキャッシュアウトフローを負担することで、将来のキャッシュインフローを期待することです。それを子どもに対して当てはめることがおかしいのです。ある意味親の都合で生んだ子どもたち、その子どもたちに将来の見返りを求めるなんて。

人に対する投資について、シビアにその効果を求めて良いのは企業だけだと思っています。企業にとって従業員へのOJTやOff-JTは、例外なくコストを発生させます。なぜなら、少なくともその従業員が仕事に従事すれば何かしら成果を上げられたであろう数時間を犠牲にしているわけですから。従業員の将来の生産性上昇を期待しての、現在の犠牲です。

さて、「人的資本」という言葉が出たので蛇足を。経済学部出身の私は、経済成長論を当時メインテーマとして勉強していました。経済が持続的に成長していくため、また経済が豊か(これは突き詰めるとかなり深いテーマですが、経済学では単純に金銭的な尺度で考えます)であるための要素として、公的機関による基礎研究、企業のR&D活動、経済活動を円滑するための金融システム、思い付くものを挙げていけばキリがありません。そして人に対する投資、人的投資、人的資本も間違いなく重要な要素の一つでしょう。
物的資本、つまり機械設備は使えば使うほど摩耗してやがて使用不可能になります。それでは、教育やその人に身に付いた技術といった人的資本はどうやって失われるのでしょうか。それは至極簡単で、本人の寿命によって失われます。よって、健康的に寿命を全うできる社会の方が、そうでない社会より長期に渡ってその人的資本を効率的に活用することができます。そしてそれが豊かな経済を実現することにつながるというのは、感覚的にも納得できることだと思います。

私は、子ども達がこの日本という健康的な国に生まれてくれたことを本当に幸せに思っています。これがもし発展途上国で、不幸にも幼くして亡くなってしまう子どもが大量にいる状態だったら…。
子ども達には、教育を含め幼いころから体験してきたことを糧に、その持てる力で社会に貢献しながら、長きに渡って実り多い人生を歩んでいってもらいたいと、切に願っています。