多摩川で50人バーベキューって(その2)

(「その1」へ戻る)


先の投稿で、いわゆる常識のない人々について紹介しました。
こうしたニュースが流れると必ずと言って良いほど聞くのが、「法律で罰則を」といった声です。
結論から言うと、私はこの手の罰則制度には賛成しません。もちろん、常識のない輩を罰して欲しいという希望は大いに持っていますし、むしろ短気な性格なので、こうしたニュースを聞いていちいち怒り狂っています。
ではなぜ安易な罰則制度に反対するのか。それは本来不要な罰則制度だからです。だって、我々の普通の感覚なら絶対にやるはずのない行動に対する罰則です。
常識が理解できない一部のバカのために、行政が執行できる法律をいたずらに強くしては危険だと考えています。それは結果的に我々のような普通の人間、常識人(でありたいと思っています)までを縛るような法律になりかねない危険性をはらんでいるからです。

話は大きく変わって次のような話題も間々聞くのですが、法律の不備だか抜け穴を見つけたとか言って、鬼の首を取ったように騒ぐ輩たち。またそうした輩を切れ者だとかインテリだとか言って崇め奉る信奉者たち。政治家や官僚に偏差値上のコンプレックスでも感じているのでしょうか。
確かに法律制定当時とは時代背景が変わってきて法律そのものが形骸化してきている場合や、本当に不備や欠陥が認められるような状態にあることも稀にあるのでしょう。
しかしながら最近聞く法律の不備は、そういった類の者ではなく、人としての常識を備えた人間にとっては何ら問題となり得ないものです。具体的に紹介することは控えますが、某政党が選挙関連でよくやる手法です。
法律に規定がないこと=法律の不備、ではありません。常識で判断できることをわざわざ法律を作ってまで規制することはないのです。法律に規定がないこと=法律の不備であると言って喜んでいる輩は、ただ自分の常識のなさを露呈して喜んでいるだけです。

日本人の美徳って、他国のように法律で雁字搦めに規制されなくとも、強制力のない自粛レベルでほとんどの人々が節度を持った行動ができることにあると思っています。
村八分といった概念、同質性を他者に求めがちである国民性は、日本人の弱い部分や良くない部分と捉えられがちでしょうが、一方でこうした有事の事態においては、強い部分や頼もしい部分とも言えるのではないでしょうか。

もちろん、暴走した正義感ほど恐ろしいものはないと思います。殊に現在のようなネット社会においては、一人の私人をその他大勢の私人が血祭りにあげる構図ができやすいという恐ろしさがあります。
ただ私は、正直者がバカを見るような社会ではおかしいと思っています。みんな必死で我慢している、未曾有の事態に一丸となって立ち向かっている中、ごく少数の心無い人間のために社会が破綻して欲しくないと思っています。

こうした社会状況がいつまで続くのか不安に思っているのは、自分だけではありません。みんなそうです。国や地方のトップだって同じ人間である以上、不安でしょう。
私は不安ながらも、事態が収束するまでは、自分なりの常識の中で潔く生きていきたいと考えています。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。